令和4年3月29日(火)の中日新聞、人生のページ、立川武蔵さんの文章です。
ヒトという動物は、自分たちの生活をより快適に豊かにしたいという欲に突き動かされて生きてきた。この動物は獲得した知識を応用して世界を思うように加工してきた。それが自分たちに与えられた権利であると信じていたからだ。
ヒトが本能的に有する「生存への欲動」そのものを止めることはできない。しかし、人間がこれまでの絶大の信頼を置いてきたその「知」によって「このままでは危ない」と察知することはできるはずだ。今や、人類の「終わり」を見据えて持続的な欲望抑制を考えるべきであろう。
科学技術の発展を止めよ、と言っているのではない。安全な地球環境を取り戻すためにも高度の科学技術が不可欠なのだ。だが、そのような科学技術の開発は、現代に見られるようなあくなき利潤の追求が止められないかぎりは不可能だろう。
いかに高度な技術でも、それ自身がその目的を変えることはできない。目的を変えることができるのは、技術の利用方法を決定する人間のみである。
仏教は人間の欲望に焦点を当ててきた。ブッダは貪り(むさぼり)、無知、怒りなどの煩悩をなくせ、と説いた。「煩悩」(梵語(ぼんご)でクレーシャ)とは、人を悩ますもののことである。だが、これほど甘美なものはない。単に人を悩ますものであったならば、仏教僧たちは修行などしなくとも煩悩を滅することができたのだ。
・・・・・[中略]・・・・・
縁起(十二支縁起)、「無我説」、「空(くう)の思想」、「マンダラ」についての内容
・・・・・[中略]・・・・・
このようにして大乗仏教が行き着いた結論は、人間は他の生物のみならず山や川とも縁起の関係にある故に他の存在と共生すべきだ、というものであった。
頭の良い「脊椎付き」ムシであるヒトは、煩悩の快楽のために貪り続け、今や、自分たちを生んだ大地さえ食べ始めた。
この現実に対して仏教がどのような現実的な力を有することができるかは未知である。しかし、このまま人間が「発展」すれば、人間の「成長」の終わりに死があることは確かだ。その破滅の「死」から人類を救う方法は無知を滅することである。
あまりにも一文一文に共感を覚えてしまいましたので、掲載させていただきす。学校の教科書に採用されてもいい文面ではないでしょうか。
仏教では、三毒(貪・瞋・痴(とん・じん・ち))すなわち(むさぼり)・(怒りの心)・(無知のおろかさ)を克服するために智慧(般若)の修得を説きます。具体的には、
「懴悔文(さんげもん)」 → 「般若心経」を唱え、その内容を理解することがそれに相当します。合掌