仄聞するところによりますと、某仏教系大学では、「仏教経営学」という科目があるそうです。一般企業と同様に檀信徒の方を「お客様」と捉え、常に「お客様」のニーズに応えないと寺院や僧侶は生き残らないと教えられるそうです。学者・経営コンサルタントが「お寺の可能性は無限大」「お寺は柔軟な対応が可能」と希望に満ちたキャッチフレーズを用いエンディング産業としても様々な面において商品化が図られ、多彩な催しが開かれ寺離れを打開する一手とされ、マスメディアにも取り上げられました。その結果多くの参加者、或いは契約を獲得することができたようです。
しかしながら、これらの取り組みは、将来を約束されたブッダ(お釈迦様)や空海(弘法大師)が、安定した自分の立場を投げ打ってまでも求め続けた仏(ほとけ)の教えとは少し違うような気が致します。
年月が経つと社会からは儲けを優先する商売坊主(寺)による「イベント仏教」と揶揄され、「心」の拠り所を求める参加者からは「仏教の教えとは程遠い、そこには本来の宗教、信仰心はない」と言われる事態にまで陥っている現状があります。本来の仏の教えを求める人にとっては、好ましい話ではありません。
私は、お寺は「経営」するものではなく、「運営」するものであると考えます。「経営」の目的は、多くの顧客を集め最終的に収益を得ることにありますが、「運営」の目的は、収益化にはありません。その目的は、利用者が多かろうが、少なかろうが与えられた「役割」をいかにその時の状況に応じて熟していくかにあります。
現代の日本では、資本主義経済により限りなく刺激された欲望充足へのあくなき働きかけが存在します。「欲望 → 消費 → 生産 → 欲望 →」の流れに完全に支配・洗脳されていると言っても過言ではないでしょう。これが無限ループに陥り、「心」よりも「物」が優位に立ち「物」が「心」を支配しているようにも思われます。
仏教では「少欲知足」の教えを説かなければなりません。ところが、現代の寺院や僧侶の多くは、仏教本来の教えに従っているとは言えません。こうした背景には、「少欲知足」の厳しい本山修行を乗り越えていない、或いは厳しい修行自体が存在しない日本仏教独特の宗派僧侶の存在があります。残念なのは、生まれてから死ぬまで一般人と同じ感覚で生活を送っていることから一般人と同様の価値観しか身についていないにも関わらず、もっともらしい受け売り仏教法話?が行われている現実があることです。
ある浄土系の教団研究所が所属寺院対象に行った調査によると、寺院収入が年300万円未満の寺院が45%、年50万円未満が10%との結果があり、約80%の僧侶が現状および将来への不安や危機感を抱いているとの回答です。もちろん副業、兼業をメインとしている似非坊主(在家坊主)はこの限りではありませんが。この不安、危機感を煽る出来事として、町中の寺院と田舎の寺院の生活の格差、人口減少からくる寺離れ、その対策として学者・経営コンサルタント等による仏教の商品化の推奨、マスメディアによる仏教のレッテル化が考えられます。
社会変化に過度に反応を示し、派手に変化せずとも、地道に歴史を紡ぐ本来の宗教活動を継続しさえすれば、どのような時代においても必ず共感・支援してくださる「人」は現れます。そして不安や危機感を抱くことなく「心」が満たされ、更に「少欲知足」を心掛けるならば、本来の寺院・僧侶は、社会環境に対応する「般若(智慧)」の教えを説くことができ、「心」の拠り所として本来の仏の教えを求める「人」々によって守られながら、いつまでも存在し続けると信じて止みません。合掌