今一度、お釈迦さまが初めて仏教の教義(法輪)を人々に説いた初転法輪(しょてんぽうりん)について考えてみたいと思います。それは、大きく「中道」(ちゅうどう)と「四諦」(したい)(「四聖諦」(ししょうたい))の2つになります。
「中道」とは、欲望に溺れ自分勝手な行動しかしないことと自らを追い込み苦行に励むことなど両極端をしないということですが、お釈迦さまは、自らの出家以前の王宮での何不自由ない贅沢な生活と出家後に自らに課した極限まで追い込む苦行の体験からいずれの極端にも囚われない「中道」によって解脱(悟り)の智慧が得られるというものです。『私は、僧侶を名乗る以上は、ある程度の苦行を伴う自由のない修行経験は必要ではないかと考えます・・・。お釈迦さまは、あくまでも私たちの想像を超える苦行経験をしたからこそ「中道」の重要性が得られたのだと考えます。欲望に溺れているとまでは言いませんが、辛い修行経験のない三重県の多くの僧侶を見てつくづく感じます』
両極端には、快楽と苦痛、好きと嫌い、善と悪と言ったさまざまなテーマがあります。受諾と拒絶といった内容では、すべてを受け入れようとすると自我肥大を引き起こし虚無感で自分自身が潰されてしまいます。また、すべてを拒絶しようとするとその時点でさまざまな繋がりが断ち切られてしまいます。どちらの極端に偏っても、結果として現実から遊離して孤立してしまいます。両極端にこだわることで、現実と向かい合うことを避けてしまっていることに気がつかない場合が少なくありません。
両極端で揺れ動く自分の心に気づき、両極端の間で意識的に自らが体験していくうちに、時間をかけてゆっくりと「中道」の意識が養われてくるものと思われます。「中道」の教えは、生体の恒常性(ホメオスタシス)を保つための生きる智慧なのです。合掌
百日紅(サルスベリ)の木
樹齢100年以上になり、幹は朽ち痛々しい限りですが、今年も青葉を付け元気な表情を見せてくれました。生命力を感じます。