• 府南寺誌

府南寺誌(府南寺の歴史)

●伊勢国府泰平山府南寺誌 久米令温(1889~1978)著

 この府南寺誌は、1920年(大正9年)に泰平山府南寺第15世住職 久米令温 大僧正が、補陀落山府南寺ならびに泰平山無量寿寺から泰平山府南寺に至る縁起を書き記した書物です。
 文語体で書かれているため、石那田昌彦氏が完訳をし、分かりやすくしたものを以下に紹介いたします。

 なお原文をご覧になりたい方は、国立国会図書館デジタルコレクション伊勢国府泰平山府南寺誌をご覧ください。

緒言(ちょげん)

 ここ伊勢には、日本人として一日も忘れてはならない、古い歴史を持ち、由緒(ゆいしょ)正しき伊勢神宮(いせじんぐう)がある。創立三千年に及ぶ現在でさえ、その放つ光が境内(けいだい)に満ちあふれ、日本の国の基礎というものは、まさしくこの神宮にあり、ここ伊勢の国にあるといってよかろう。風光明媚(ふうこうめいび)な自然、景観のすばらしさ、その他、見るべきものが実に多くある。
 こうして、歴史的、地理的におそらく他に類を見ない神聖な国が伊勢である。それほど知られていない幾多の名所・旧跡も少なくない。
 伊勢の国鈴鹿郡国府(こう)の里に、泰平山府南寺(たいへいざんふなんじ)と称し、おそれ多くも、伊勢神宮とは切っても切れない深い関係がある一寺院が存在することを忘れてはならない。
 ここ府南寺は、聖徳太子(しょうとくたいし)の創建によるものであり、行基(ぎょうき)の来寺を経て、弘法大師(こうぼうだいし)のお越しによって以降、真言宗となった。現在、大本山御室派仁和寺(おむろはにんなじ)の末寺(まつじ)であって、寺格は二等格の寺院である。国府の中央に位置し、国府の五百戸あまりの信徒は、常日頃から泰平山を崇拝する心あつく、とりわけ最近、国府村の主だった識者が府南寺保存のため、基礎を確立しようという気持ちを持ち、さらに多くの信者の崇拝を集めつつある、由緒正しき寺院なのである。
 その境内には、数百年の時を経た松やひのきがうっそうと生い茂り、それら木々の間に、古色蒼然(こしょくそうぜん)とした諸堂や伽藍(がらん)が軒を並べ、ここが名だたる寺院であり、かつて大いににぎわった時代があったことを思わせるのである。
 石段を数段上ると、南に面した山門には、悪魔を退散させる恐ろしい形相(ぎょうそう)をした仁王像(におうぞう)を拝することができる。言い伝えによれば、この仁王像は室町幕府八代将軍、足利義政(あしかがよしまさ)の時代に再造されたもので、運慶(うんけい)の真作として、三重県下、並ぶものなき名作なのである。山門には金の文字も美しく「泰平山」の額がかかり、境内の荘厳(そうごん)さをより一層高めている。山門をくぐって境内に足を踏み入れると、正面に泰平山の諸堂の全てをご覧いただくことができる。
 まず、阿弥陀堂に参拝すれば、「国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)」「覚乗上人一刀三体(かくじょうしょうにんいっとうさんたい)の阿弥陀如来(あみだにょらい)」、弘法大師真作とされる「不動明王」がまつられている。
 名だたる由来を持った国府阿弥陀如来は、まことありがたき仏におわしまし、その尊像は、数百年間にも及んで、厳然たるお姿にてお立ちになっている。この如来像をご覧になるとき、そのお姿の尊きことただ事ではないので、自然に頭が下がり、心からの礼拝(らいはい)に及ぶであろう。
 観音堂には、千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)、薬師如来(やくしにょらい)、毘沙門天(びしゃもんてん)、勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)、不動明王(ふどうみょうおう)、真言宗宗祖弘法大師(しゅうそこうぼうだいし)、興教大師(こうぎょうだいし)等をまつっている。
 ご本尊の観音菩薩はたぐいまれなる仏におわすため、五十ヶ年に一回開帳する古くからの習わしで、国府の村でも、その尊きお姿を目にした者は稀なのだという。
 ご本尊をおまつりする行事は、かつては3月17日・18日の両日に行われていたが、今は10月5・6・7日に変更された。当日は、村内五百戸あまりの信徒は、ご本尊の前で五体投地(ごたいとうち)をする。泰平山住職は、本尊大護摩供(ほんぞんだいごまく)をとり行い、村内の安全、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、疫病退散(えきびょうたいさん)の祈祷(きとう)をするのが通例となっている。毎月17日には、千手観音護摩供(せんじゅかんのんごまく)をとり行い、また9月3日にはご本尊前で大般若会(だいはんにゃえ)をとり行って、皇統が永久に続かんこと、天下泰平、村内安全、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する。7月17日などは、あちらこちらの善男善女(ぜんなんぜんにょ)の参拝が大変多い。
 鐘楼(しょうろう)の鐘は、行基が鋳造(ちゅうぞう)したものであり、この鐘の妙(たえ)なる音を聞くと、心身が次第に清浄(せいじょう)になっていくのを感じるのであった。しかしながら、この鐘も戦国時代の騒乱の中、信仰心なき不心得者の乱打によって亀裂を生じてしまい、再度鋳造せざるを得ない状況となった。
 そこで、徳川幕府の治世(ちせい)の折、泰平山の住職、良遍法印(りょうへんほういん)が多くの人々から鏡を募り、それらを使って鐘の鋳造を行ったのである。その美しい鐘の音は、四方、十里にも及び響き渡ったということである。
 残念なことに、明治初年の国府村の米倉の大火の際に、再び乱打され、美しい鐘の音は小さくなってしまったのである。
 しかし現在においても、平穏な日には、その音色は四方、三里に達するのである。その音色によって、幾千もの人々が、朝には煩悩(ぼんのう)の夢から覚め、夕べには諸行無常(しょぎょうむじょう)の道理を感じ、尽きることのない仏の功徳(くどく)にあずかるのである。
 この寺は、泰平山無量寿寺(たいへいざんむりょうじゅじ)と補陀落山府南寺(ふだらくざんふなんじ)の二寺が合併して、泰平山府南寺という寺ができたのである。その昔、天正(てんしょう)年間、織田信長(おだのぶなが)による伊勢侵攻の戦乱に際し、上寺観音(うえでらかんのん)、すなわち補陀落山府南寺の建物は兵火により焼失したのであるが、ご本尊の尊きお力のため、少しの異常もなかったのである。時の住職は、泰平山無量寿寺が幸いにも兵火を免れ、わずかに伽藍(がらん)が破壊されたのみであったので、ご本尊を泰平山にお移しし、そこにおまつりすることとした。
 次いで、天正年間の終わり頃、二寺を併合して「泰平山府南寺」と称するに至ったのである。すなわち現在の寺院である。
 こうして、世間の信仰を集める国府阿弥陀如来と千手観音菩薩の両ご本尊が安置されている次第である。阿弥陀堂と観音堂の二つが建っているのも、このためである。
 泰平山の歴史をさかのぼって遠くその由来を探ろうとするならば、当然、この二寺がそれぞれ別々にあった時まで立ち戻って調べなければならない。
 今ここに、便宜上まず泰平山無量寿寺の由緒(ゆいしょ)を記し、次いで補陀落山府南寺について述べることとする。

第一章 創立の縁起(えんぎ)

第一節 泰平山無量寿寺(たいへいさんむりょうじゅじ)(国府阿弥陀(こうあみだ))

 もともと、泰平山無量寿寺は、補陀落山府南寺(ふだらくざんふなんじ)とともに、聖徳太子のご創立によるものであり、物部守屋(もののべもりや)が降伏した後、建立(こんりゅう)されたお寺である。 
 それ以来、鎮護国家(ちんごこっか)の霊場としてあつい信仰を集め、聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(ちせい)の折には、ここを「天下泰平五穀豊穣(てんかたいへいごこくほうじょう)」の勅願所(ちょくがんしょ)とお定めになったのである。それにもかかわらず、寺が荒廃(こうはい)したため、行基(ぎょうき)に命じ、寺の修復を行わせられた。つまり、行基は府南寺にしばらくの間逗留された次第である。
 その後、弘仁(こうにん)年間平城天皇(へいじょうてんのう)の治世になって、弘法大師(こうぼうだいし)が諸国を巡って仏の教えを広められた際に府南寺にお立ち寄りになり、本尊を拝し奉(たてまつ)られ、めったにないご尊像に感嘆なさり、17日間に及ぶ、真言密教(しんごんみっきょう)の胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)双方で、大日如来(だいにちにょらい)を奉ずる行をとり行われたのである。諸国の役人はもとより、善男善女(ぜんなんぜんにょ)がその行に参加するため集まること、それは大変な数に上ったということである。
 この時初めて弘法大師が、府南寺の号として「泰平山無量寿寺」と名付けられたのである。そして、これらはみな、阿弥陀如来のご利益(りやく)であり、また本地垂迹(ほんちすいじゃく)の神秘もあったので、世の人は皆、密教における胎蔵界の中の阿弥陀様が、天照大神(あまてらすおおみかみ)のもともとのお姿であると深く崇(あが)め、日本国のもっとも古く、かつ、あつい信仰を集める場所として、伊勢神宮(いせじんぐう)を参詣する善男善女はすべて、府南寺に心を寄せ、参拝するのが習わしであったのである。
 また、阿弥陀如来は永く秘仏として、住職でさえ拝することができなかったのである。
 時は移って、弘仁年間から四百数十年を経て、後宇多(ごうだ)天皇の治世になって、南都西大寺(なんとさいだいじ)の僧侶で覚乗上人(かくじょうしょうにん)という高僧がいた。知識、法力の双方を兼ね備えた人物として、その名が広く世間に知れ渡り、密教の奥義(おうぎ)を究(きわ)めていたのであった。
 ある時、上人、「伊勢神宮はわが日の本の、古く、かつ、あつい信仰を集める、日本国中が崇めるところである。できることなら、神宮の真実をうかがい知りたいものである。」との請願(せいがん)をされ、二百日を一つの期限として神宮にこもってひたすらご祈願されたのであった。九十九日目の夜、午前三時ごろに、忽然(こつぜん)と神が覚乗上人の夢枕で託宣(たくせん)されたのである。
 「汝(なんじ)、私の真実を知りたいと思うのであれば、夜が明けるのを待ち、二見ケ浦(ふたみがうら)に来るがよい。私の姿を見せてやろう。」
 そこで、上人は未明の時刻に二見ヶ浦に赴(おもむ)き、しばらくの間、思いを巡らせていると、不思議なことに、水面がたちまち光り輝いて一丈(いちじょう)(約3メートル)あまりの背丈の金色の蛇が姿を現した。覚乗上人は驚き、頭を地にこすりつけるように下げながら言うには、「仏が姿かたちを変え、衆生(しゅじょう)を救うそのご利益は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)に異なることがないとは言え、末世(まっせ)に生きる一般の人々は恐れおののいて、信心する心は生じにくいものです。この権化(ごんげ)のお姿は、いかに方便(ほうべん)とはいえ、本地垂迹のまことを表したものではありません。」
 そう言って、上人が着ていた竹布(ちくふ)の袈裟(けさ)を脱ぎ、蛇のお姿に投げかけなさると、その蛇は袈裟とともに水中に没してしまった。
 そこで、上人は伊勢神宮にこもって、神の真のお姿を拝見できるようにと、ひたすら祈りを捧げたのである。すると十七日目の満願の日、夜更けて、空中で声がする。
 「神は、人知で測り知れない力で、姿かたちを変化(へんげ)させるものである。金色の蛇の姿となって権化することもあれば、あるいは、内宮(ないくう)、外宮(げくう)を実際の形になして、この日の本を守り、あるいは、光をやわらげて苦しみの世界の塵(ちり)にまみれてしまったとしても、神の正真正銘(しょうしんしょうめい)の真実の姿や力を及ぼす光そのものが隠れてしまうということは、決してないのだ。天皇が治める世が豊かであり、仏法(ぶっぽう)が国中いたるところに広まって、末世(まっせ)に生きる一般の人々を救い、利益(りやく)を授けるために、私は汝(なんじ)に金色の体をした龍の姿として顕現(けんげん)させたのだ。汝が私の真実の姿を知りたいと欲するならば、この地の北にある国府(こう)の里に一つの寺がある。その名を『泰平山無量寿』と号している。そこに安置する阿弥陀三尊こそ、私の真実の姿を変化(へんげ)させたものである。私がここに安置されて久しい。この像を拝することは、すなわち、私を拝することに等しいのだ。」という、明らかなお告げがあった。
 上人は驚き感動して、すぐに府南寺に来て、住職良範法印(りょうはんほういん)にこの話をした。すると、良範法印もまた、前日の夜にご本尊のお告げを受けていたのであった。
 「夜が明けると、一人の僧が来て、阿弥陀三尊(あみださんぞん)の開帳を願い出るであろう。決してこれを断ってはならない。」
 ご本尊の阿弥陀如来は、昔から密教(みっきょう)の胎蔵界(たいぞうかい)における極秘(ごくひ)の像であり、この寺の代々の住職が固く守り伝え、決して公(おおやけ)にはしなかった、諸国が称賛(しょうさん)する秘仏(ひぶつ)ではある。しかしながら、今こそ、末世を生きる衆生(しゅじょう)を助ける時期が来たものと、大衆に呼びかけて大般若会(だいはんにゃえ)をとり行い、開帳に及んだのである。
 謹(つつし)んで扉を開けると、阿弥陀如来の端正で、妙(たえ)なるお姿が厳然(げんぜん)としてあり、そのお姿から光が放たれること、実に十日間にも及んだと聞いている。
 覚乗上人、良範法印はじめ、大衆一同、恭(うやうや)しく礼拝(らいはい)して一心に仏への帰依(きえ)を誓いながらお顔を見てみると、なんという不思議なことか、上人が二見ヶ浦で拝した光と寸分たがうことなく、さらには、蛇に投げかけた竹布の袈裟が、阿弥陀如来の肩にかけられてあったのである。
 疑いようもない、真実のお姿を拝見して、覚乗上人は感涙にむせび、大衆はただただ不思議な思いにかられた。一同がひたすらお経を唱える声がこの山に響き渡って、たいそう神々(こうごう)しい様子であった。
 覚乗上人は良範法印に竹布の袈裟の話をした。二人は互いに仏の徳の偉大さに感嘆し、感涙(かんるい)にむせんだのである。
 こうして、ご本尊の阿弥陀如来は、伊勢神宮の本地垂迹の仏として、その霊験(れいけん)が示されると同時に、衆生(しゅじょう)に利益(りやく)を授けるそのお力は、国中に知れ渡ることになったのである。
 この阿弥陀如来に帰依し、信仰を捧げる者は、現世においては無量の災難を払い、死後においては浄土で生きられること疑いない。
 ご詠歌(えいか)は以下のとおりである。

ただ頼め よろづの罪は深くとも わが本願のあらんかぎりは
弥陀頼む 人を空しくなすならば われこの国の神と言はれじ。

第二節 補陀落山府南寺(ふだらくざんふなんじ)(観音菩薩(かんのんぼさつ))

 補陀落山府南寺は、国府(こう)の観音とも、上寺(うえでら)の観音とも言い、ご本尊は千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)であり、左右の脇侍(わきじ)には毘沙門天王(びしゃもんてんおう)と勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)がまつられている。
 推古天皇(すいこてんのう)の治世(ちせい)の頃、聖徳太子(しょうとくたいし)が仏法を日本に広めようとなさったときに、物部守屋(もののべもりや)と意見が衝突し、大きな戦争がおこったとき、聖徳太子はやむなく、物部守屋が降伏するようにとの祈願のため、伊勢神宮にまつられている天照大神(あまてらすおおみかみ)を参拝した。その折、
「汝(なんじ)、もし守屋を降伏させ、仏法を日の本に広めおこそうとするならば、まず、この伊勢の国に伽藍(がらん)を一つ建立(こんりゅう)し、ひたすら勝利を祈るがよい。汝の宿願(しゅくがん)は必ずや速(すみ)やかに達せられるであろう。」
という神のお告げを得たのである。
 どこか適当な地を選ぼうと聖徳太子が伊勢の国をお巡りになり、この国府(こう)に至られたとき、不思議なことに、姿かたちは美しいものの、普通の人間には見えない一人の童子(どうじ)が突然太子の前に姿を現し、こう言った。 「私は、汝が来るのを待っていたのだ。この南の山は、蓮(はす)の花がたくさんあるところで、観音菩薩のご縁ゆかしい補陀落山(ふだらくざん)同様の素晴らしい場所である。ここに千手観音菩薩を安置し奉(たてまつ)れば、汝の厄難(やくなん)は消滅し、衆生の諸願(しょがん)は成就(じょうじゅ)すること疑いないであろう。」
と太子にお告げになった。太子はその童子に向かって、
「あなた様はどなたでいらっしゃるのでしょうか。」
とお尋ねになると、
「我こそは雨宝童子(うほうどうじ)なり。」
とお答えになり、数歩歩いてそのお姿は消え失せてしまった。
太子はこれこそ、本当の神のお告げに違いないと、その言葉を信じ、直ちにふさわしい木を探して、一丈六尺(約4.5メートル)の千手観音菩薩をお刻みになり、七堂伽藍(しちどうがらん)を建立(こんりゅう)して「補陀落山府南寺(ふだらくざんふなんじ)」とお名づけになったのである。
 観音様の浄土を補陀落山というので、山号を「補陀落山」と名づけられた。「府南寺」とは、北に国府(こくふ)があり、その南にある寺なので府南寺と命名された。つまり、山号は本尊にちなみ、寺号は場所の名前にちなんで、どちらもこの寺の由緒因縁(ゆいしょいんねん)を知らしめる名称である。
 したがって、補陀落山と国府の里は、切っても切れない深い因縁があると言えるのである。太子は、飛竜権現本地摩利支天(ひりゅうごんげんほんちまりしてん)を安置して補陀落山守護の守り神とお定めになり、しばらくご逗留(とうりゅう)になって祈願され、将兵には勝軍厄除け(しょうぐんやくよけ)の観音のお守りを授与して戦(いくさ)に向かわれたとのことである。
これ以後、推古天皇の補陀落山への帰依(きえ)の心はたいそうあつく、勅願所(ちょくがんしょ)となさるに至ったのである。当時、この補陀落山府南寺はこの世の浄土のようであり、伝記によると、常に天人(てんにん)が天から舞い降りてふもとの蓮池(はすいけ)の花を千手観音像にお供えし、時には空中で妙(たえ)なる調べを響かせながら、この池の上で舞うこともあったということである。
 そのため、この池を「天人影向ヶ池(てんにんようごうがいけ)」または「観音池」と称している。
 また、観音菩薩像の前には、聖徳太子お手植えの松があり、その名を岸の松と称していた。
 ここは、伊勢西国(いせさいごく)第18番札所(ふだしょ)にあたり、花山天皇(かざんてんのう)のご詠歌に、
 いろづくや 上寺山(うえでらやま)の岸の松 風の音して 穐(あき)を知らせむ
とある。
 この不思議な池を一度訪れ、一度祈願するならば、その罪業(ざいごう)がいかに深かろうと、たちまち消滅し、必ず諸願成就(しょがんじょうじゅ)することは疑いないのである。
 今日においても、ご本尊の不思議なお力の功徳にあずかる者は枚挙(まいきょ)にいとまがなく、近隣(きんりん)は言うに及ばず、遠方からも、善男善女(ぜんなんぜんにょ)が途切れることなくここを訪れ、病気平癒(びょうきへいゆ)、厄除け(やくよけ)、開運、安産、養蚕(ようさん)などにご利益を得ようと参詣する者が多いのである。なかには、女性の命とも言える髪を献じて祈願する者さえもいる。
 このような、長い歴史と不思議なお力をお持ちになる千手観音菩薩こそ、補陀落山府南寺のご本尊であり、心ある者なら一人残らず、深く信仰しなければならないのである。

第二章 誓願(せいがん)

 観音菩薩(かんのんぼさつ)は、過去には正法明如来(しょうほうみょうにょらい)と言われ、未来においては光明功徳仏(こうみょうくどくぶつ)と言われる。十の願をたて、この俗世間に姿を現して、衆生(しゅじょう)のために慈悲(じひ)のまなざしとお力添えをくださる、この上なく尊くおいでになる仏である。たとえて言うなら、水が清らかに澄み、そこに明月がくっきりとその姿を映すかのように、その不思議のお力はまことに顕著(けんちょ)なのである。
 法華経普門品(ほけきょうふもんぼん)の中では、限りない寿命を持つ身として姿を現し衆生をお救いになるのである。
 すなわち、三十三身応現説法(さんじゅうさんじんおうげんせっぽう)である。三十三身とは、青頸(せいきょう)観音(即身化身)、水月(すいげつ)観音(辟支仏身)、持経(じきょう)観音(声聞身)、徳王(とくおう)観音(煩王身)、葉衣(ようえ)観音(帝釈身)、瑠璃(るり)観音(自在天身)、普悲(ふひ)観音(大自在天身)、威徳(いとく)観音(天大将軍身)、阿麼提(あまだい)観音(毘沙門身)、蓮臥(れんが)観音(小王身)、衆寶(しゅうほう)観音(長者身)、六時(ろくじ)観音(居士身)、一葉(いちよう)観音(宰官身)、合掌(がっしょう)観音(波羅門身)、白衣(びゃくえ)観音(比丘比丘尼身)、馬郎婦(ばろうふ)観音(婦女身)、持蓮(じれん)観音(童男童女身)、龍頭(りゅうず)観音(天龍夜叉)、不二(ふに)観音(執金剛身)、遊戯(ゆげ)観音(堕落金剛山)、瀧見(たきみ)観音(火抗変成池)、施楽(せらく)観音(如日虚空住)、魚藍(ぎょかん)観音(或遇亜羅刹)、延命(えんめい)観音(呪詛諸毒薬)、岩戸(いわと)観音(蚖乍及丘蝠蝎)、能静(のうじょう)観音(吹其船漂堕羅刹鬼国)、多羅尊(たらそん)観音(惑値怨賊繞)、蛤蜊(こうり)観音(菩薩身)、一如(いちにょ)観音(雲雷鼓掣電)、灑水(しゃすい)観音(若為大水火)、圓光(えんこう)観音、楊柳(ようりゅう)観音、阿耨(あのく)観音の以上三十三身の観音は、以下の六観音として顕現(けんげん)する。すなわち、千手観音、馬頭(ばとう)観音、十一面観音、聖(しょう)観音、如意輪(にょいりん)観音、準胝(じゅんてい)観音の六観音に、一部、不空羅索(ふくうらそく)観音に姿を変え、あらゆる災難や苦しみをことごとく消滅させ、この世とあの世における衆生の願いを叶えさせ給うのである。
 千手観音菩薩の利益(りやく)を述べると、誠の心を持って千手観音菩薩を念ずると、十五種類に及ぶ「悪死」を受けることがなくなる。
 悪死とは、①飢餓や生活が困窮することによる死がない②自由が束縛され、鞭(むち)うたれて苦しみの中での死がない③家や対人関係での恨みつらみの中での死がない④戦(いくさ)において敵に殺される死がない⑤野獣に襲われての死がない⑥ヘビやサソリにかまれての死がない⑦水死や火災による死がない⑧毒薬による死がない⑨寄生虫による死がない⑩気が狂ってしまっての死がない⑪山や崖から墜落しての死がない⑫人から呪いを受けての死がない⑬邪な(よこしまな)神がもたらす死がない。⑭悪い病気が全身を覆ってしまうような死がない⑮自殺による死がない、以上の15種類である。
 このように、千手観音菩薩を念ずることによって、15種類の悪死を取り除くことができ、逆に15種類の「善き生」を受けることが可能となる。
 善き生とは、①安全で住みやすい国で生き②時の運に恵まれ③良き友と出逢い④五感がどれ一つ欠けることなく十分に機能し⑤仏道にいそしむ気持ちが満たされ⑥してはならない過ちをすることなく⑦家族や血縁関係のいさかいなく⑧家財も食も満たされ⑨人から尊敬され⑩所有する財産が奪われてしまうようなことなく⑪こうしたいと思うことが全て叶えられ⑫龍神様、天神様が常に身をお守りくださり⑬生まれた所で仏の正しい道を身に着け⑭仏の説く正しい教えを聞き⑮この世の神秘に至る、このような生を言う。
 不安定な状態が続き、様々な障害が身の回りでおきるような時も、千手観音菩薩を念ずるならば、金剛力士(こんごうりきし)はじめ、仏に従う五百以上の神々が常にお守りくださる。
 たとえば、荒れ果てた山野に分け入り、虎や狼などの野獣、ヘビやサソリ、妖怪(ようかい)などに出会ったとしても、ひたすら千手観音菩薩を念ずることによって、それらの害を受けることはなくなるのである。
 広い湖や大海原(おおうなばら)を航行するときも、毒龍や毒蛇の類(たぐい)、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)の悪神どもは自ら隠れてしまう。
 戦において敵に囲まれたり、悪人に財宝を奪われたりしても、ひたすら千手観音菩薩を念ずれば、その者たちが慈悲の心を持つに至り、命を奪われることもなく、奪われた財宝も戻ってくるのである。
 旅の途中、食中毒におかされた宿で食べ物の中の寄生虫によって害に遭う(あう)ようなときも、千手観音菩薩を念ずると、その毒はたちまち甘くておいしい飲み物に変わるのだ。
 お産の際、様々な要因で、苦しく、痛みに耐えかねるような難産であっても、千手観音菩薩を念ずると、痛みも消え、無事子供が生まれるのである。
 疫病にかかり、熱病が全身を覆いつくして命尽きようとするときも、千手観音菩薩を念ずることによって、疫病は消滅し、寿命は長く続くのだ。
 腫れ物(はれもの)ができ、膿(うみ)をもったかさぶたから血が出て、その痛みに耐えられないときも、真心を込めて千手観音の功徳(どく)を説く陀羅尼(だらに)を唱えながら、その腫れ物に三回息を吹きかければ、痛みも消える。
 けがれた心を持ち不善をなす悪人が、呪い殺そうとしてまじないをかけようとも、千手観音菩薩を念ずると、その呪いは逆にその本人にかけられる。
 人々の心が乱れ、仏法(ぶっぽう)が滅んでしまうかに見えるとき、愛欲の気持ちが強くなって血迷ってしまい、妻や婿(むこ)を捨て、昼夜悪い心にさいなまれ、家を振り返ることなく外に出てばかりのようなときも、千手観音菩薩を念ずると、愛欲の邪な(よこしまな)心は消滅するのである。
 ここに書き記したことは、この世のあらゆる真理や法則、秘法など、真言密教の全てを書き記した書物に示されている真実のことである。
 千手観音(せんじゅかんのん)のお体には、肘(ひじ)から下の腕が四十ある。現世(げんせ)における二十五の心の世界を慈悲の心でお守りになり、それぞれの世界を四十の腕で功徳をお授けになる。すなわち40×25=1000、合計千手(せんじゅ)となる。
 ここで、四十の腕で迷える衆生(しゅじょう)を悟りへとお導きになる功徳(くどく)を述べると、思いがけない富や珍しい宝物を求める際には、如意宝珠(にょいほうしゅ)の手でお救いになる。内臓の病気を治癒するためには、宝鉢(ほうはつ)の手でお救いになる。あらゆる悪魔を退散させるには宝剣(ほうけん)の手でお救いになる。あらゆる魔神(ましん)を退散させるには跋折羅(ばっせつら)の手でお救いになる。あらゆる呪いのまじないを解くためには、金剛杵(こんごうしょ)の手でお救いになる。不安とおそれの気持ちでいっぱいの者には、施無衣(せむい)の手でお救いになる。目が見えず、暗闇で生きる者には、日精摩仁(にっせいまに)の手でお救いになる。熱病にかかって治癒を求める者には、月精摩仁(げっせいまに)の手でお救いになる。立身出世(りっしんしゅっせ)を望む者には、宝弓(ほうゆう)の手でお救いになる。善や親友にできるだけ早く出逢いたい者には、宝前(ほうぜん)の手でお救いになる。諸々(もろもろ)の病で苦しむ者には、楊柳(ようりゅう)の手でお救いになる。身の上に湧きおこる障害を除くためには、白仏の手でお救いになる。仲睦まじい(なかむつまじい)家族や血縁関係にある者のためには、胡瓶(こびょう)の手でお救いになる。虎や狼などの野獣を除くためには、傍牌(ぼうはい)の手でお救いになる。正しい行いをなす役人が難を逃れるためには、鉞斧(えっぷ)の手でお救いになる。召使(めしつかい)の男女のためには、玉環(ぎょくかん)の手でお救いになる。種々の功徳(くどく)のためには白蓮華(びゃくれんげ)の手でお救いになる。十方浄土(じっぽうじょうど)に往生しようとする者のためには、青蓮華(せいれんげ)の手でお救いになる。大いなる知恵を求める者のためには、宝鏡(ほうきょう)の手でお救いになる。四方全ての諸仏(しょぶつ)をご覧になるときには紫蓮華(しれんげ)の手でお救いになる。世を離れ人目をはばかるためには、宝篋(ほうきょう)の手でお救いになる。仙人修行(せんにんしゅぎょう)のためには、五色雲(ごしきうん)の手でお救いになる。欲望無き清浄(せいじょう)なる世界に生まれ変わりたいと欲する者には、軍持(ぐんじ)の手でお救いになる。天界に往生(おうじょう)したいと願う者には、紅蓮華(ぐれんげ)の手でお救いになる。逆賊(ぎゃくぞく)を除くためには、宝戟(ほうげき)の手をもってお救いになる。諸天におわします善神(ぜんしん)をお呼びなさるときには、宝螺(ほうら)の手でお救いになる。鬼神(きしん)をお使いなさるためには、髑髏杖(どくろじょう)の手でお救いになる。奥深い、清浄な仏の声が響く世界にするために、宝鐸(ほうたく)の手でお救いになる。弁舌が確かなものになすためには、宝印(ほういん)の手でお救いになる。善神や龍王が常にやって来てお守りするためには俱尸鉄鉤(くしてっこう)の手でお救いになる。あまねく衆生(しゅじょう)に慈悲の心で守るためには、錫杖(しゃくじょう)の手でお救いになる。あまねく衆生が常に尊敬と愛しい気持ちで観音に接するためには、合掌(がっしょう)の手でお救いになる。生まれ育った場所の諸仏がそこを離れず、常にそこにいらっしゃるためには、化佛(けぶつ)の手でお救いになる。勉学にいそしみ、広く知識を得ようとする者には、宝経(ほうきょう)の手でお救いになる。現世(げんせ)における体から来世(らいせ)における仏の心に至るまで、菩提心(ぼだいしん)が減じてしまわぬようにするためには、不退金輪(ふたいこんりん)の手でお救いになる。四方の諸仏が速やかに(すみやかに)お出ましになり、摩頂授記(まちょうじゅき)をおさせになるときには、頂上化佛(ちょうじょうけぶつ)の手でお救いになる。五穀(ごこく)その他あらゆる作物の豊かな実りをなすためには、葡萄(ぶどう)の手でお救いになる。
 このように、求める願いに対する方法にいくつものやり方があって、全ての衆生を悟りにお導きになる仏でおわすので、身分、性別、老若(ろうにゃく)の区別なく、現世(げんせ)における安穏(あんのん)を祈り、来世(らいせ)がより良き場であってほしいと願うならば、常々、千手観音菩薩を念ずるべきなのである。
 念ずるそのときには、観音のすこぶる優れたお力にあずかり、いかなる罪障(ざいしょう)であっても消滅する。観音菩薩がお持ちの、尊くかつ無辺(むへん)のお力は広い海のごとくであり、一瞬たりとも疑うことなく、「南無(なむ)千手観音菩薩、南無千手観音菩薩、南無千手観音菩薩」と念じつつ、最大限の礼拝(らいはい)を捧げなければならない。

第三章 霊験(れいけん)

第一節 不思議な出来事その1

 当山の両本尊である、阿弥陀如来(あみだにょらい)と千手観音(せんじゅかんのん)菩薩(ぼさつ)はともに古くから、様々の不思議な事を我々にお示しである。府南寺代々の住職は、それら不思議な出来事に敬虔(けいけん)な思いを抱きつつ、日々仏さまにお仕えしてきたのである。そうした不思議な出来事のいくつかを紹介してみよう。
 明治18年、国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)を地方で開帳する行事に際して、わたくしの一代前の先代住職である是心法印(ぜしんほういん)と、法類不動院の現住職栄性法印(えいしょうほういん)が、責任者として美濃の国(現在の岐阜県)大垣を経て、同国の笠松においてご開帳をとり行われた。
 数多くの参拝者の中に一人の老婆がいて、次のように語った。
 「今まで、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊を何度も礼拝してまいりました。阿弥陀様はそのお姿を拝見できますのに、観音、勢至の菩薩様は、幾度礼拝いたしましても拝見することができませんでした。」
 この老婆はおかしなこともあるものだと思って、二人の住職にその理由を尋ねてみたのであった。すると、栄性法印がその理由をこう語ったのであった。
 「それは、すべて汝(なんじ)の業(ごう)が深いためであろう。心を尽くして罪を懺悔(ざんげ)するがよい。」
 それを聞いた老婆は、その言葉にしたがって、真心を込めて、自らの罪を悔い改め、ひたすら仏の許しを請うたのである。
 ご開帳の結願(けちがん)の日、不思議なことに、阿弥陀如来はじめ、観音、勢至の三尊が光り輝くかのように老婆の目に映り、そのお姿を確かに目にすることができたのである。老婆は感激の涙にむせびながら、帰途についたということである。

第二節 不思議な出来事その2

 大正7年4月15日の夜、わたくしは夢を見た。
 府南寺ご本尊、阿弥陀如来が光を放ちながら降臨(こうりん)され、俗世間の垢(あか)にまみれたわが身をかぐわしい香りが包むなか、阿弥陀如来のお姿を尊崇(そんすう)の念をもって礼拝(らいはい)しているのである。
 かねて、当山ご本尊が不思議なお力をお持ちであることを聞き及んでいたので、何事かのお告げに違いないと思い、日ごろにも増して、心を尽くしてお勤めに励んだのである。
 翌16日、ご本尊の前に壇(だん)をととのえ、光明(こうみょう)のお勤めをなし、「大随求陀羅尼(だいずいぐだらに)」「心経秘鍵(しんぎょうひけん)」「三陀羅尼(さんだらに)」等を唱えながらお勤めをなすこと三日。18日の護摩行(ごまぎょう)が終わって、参加をしていた国府村(こうむら)村長の平井利一氏をはじめ、その他の諸人(しょにん)が口々に言うのであった。
 「ご住職が日々、観音堂で諸人のためご祈祷(きとう)なさるのはいつものことだが、この三日間、阿弥陀堂で心のこもった経文(きょうもん)の声が漏れてくるのは日ごろにないことだ。」
 村長の平井氏が代表してその訳を尋ねたのであるが、わたくしはただ、
 「阿弥陀如来の像には不思議な力があるからなのだよ。」
 と答えていたのである。
 翌19日午前10時頃、山門前に人力車が二台止まり、二人の紳士が山門をくぐり、恭(うやうや)しく諸堂の仏像を参詣したのち、わたくしのところに来て語った。
 「我らは日ごろ、阿弥陀三尊(あみださんぞん)の不思議な出来事のご加護(かご)を頂戴(ちょうだい)しております。一度、ご本尊を拝したいのですが。」
 わたくしはその申し出を快諾(かいだく)し、開帳してご本尊のお姿を二人に拝謁(はいえつ)させたのである。
 二人は感激のあまり涙を流しながら、ご本尊を三拝九拝(さんぱいきゅうはい)したあと、わたくしに向かいうれし気にこう語ったのである。
 「我らは加賀(かが)の国(現在の石川県)金沢市西町一丁目に住まう森太兵衛(嘉永六年生)と息子芳二郎(明治十六年生)と申す者でございます。私の亡き父、太兵衛(幼名鍋太郎)は常日頃、阿弥陀如来を信心しておりました。文政9年12月14日の夜、阿弥陀如来のお告げを頂戴しまして、『鍋太郎。鍋太郎。汝は常に阿弥陀如来を信心している。才川(さいかわ)下流の左岸、縁明院跡に一体の仏が埋もれている。夜が明けたら汝そこへ行き、その仏を持ってまいれ。』」とのことでございました。
 翌朝、夢に見たところを探したけれども見つからず、正夢ではなかったのかと、その場を去ろうとしたその時、向こうに小高い雪の塊(かたまり)があるのを見つけたのです。もしかしてこれではないかと思い雪を取り除いてみると、不思議なことに、古い像が描かれてあり、塵(ちり)を払ってみると、阿弥陀様の像だったのです。恭(うやうや)しく持ち帰り、きちんと体裁(ていさい)をととのえ、僧を招いて披露(ひろう)したうえで、仏壇に安置し、家内一同で参拝することを日ごろの習慣としたのでございます。
 ご本尊の不思議のお力は数々ありましたが、その像がどこのご本尊であるかを私が知る由(よし)もなく、周りの人たちに聞いたり,多数の参拝者に聞いたりしたのですが、結局わからずじまいでございました。そこで、その本尊を持って京都に赴き浄土真宗本願寺(じょうどしんしゅうほんがんじ)に詣(もう)で、本尊を見せてお聞きましたところ、
 「これは真宗の本尊ではない。ただ、他宗の尊い像であるのは間違いないので、大切にされるがよかろう。」
とおっしゃって、残念ながら不明のまま帰国することとなりました。
 その後、能登(のと)国(現在の石川県)珠洲郡(すずぐん)大谷村の僧、大井来軒師が参詣され、よくよくご覧になり、像の中に「伊勢国府(いせこう)」の四字があるのを見つけ、太陽の光で透かして見てみると、確かにその四字があるのが見えました。その時、伊勢国府の地にこのご本尊が安置されているのであろうと確信したのです。
 そうして、このたび伊勢神宮参詣の帰途(きと)、亀山駅において国府に阿弥陀如来が安置されているのを聞き、まさしく我らが常日頃信仰し、訪ね歩いた本尊こそがそれなのだと、うれしい気持ちでいっぱいになり、亀山駅で下車し駅前で一泊して本日、こうして参詣した次第です。」
 そうして、「これがそのご本尊です。」と言いながら、絹の風呂敷に包まれた桐箱から一本の掛け軸を取り出したのである。
 ゆっくりと掛け軸を開いて見てみると、阿弥陀如来の像が明らかに認められ、紙面に「伊勢国府」の四字がある、まことに古い掛け軸である。裏面を見ると、鍋太郎の自筆で、
 「文政9年12月14日夢にて15日の朝ごみ捨て場にて御拾い上げ申候御事。」
 と記してある。まことに不思議なことであり、府南寺ご本尊のお姿と少しも異なることがなかった。その昔、府南寺参詣の折に授与されたものがいつの間にか埋もれてしまったものであろうと察せられる。
 このような不思議な因縁(いんねん)を持った参拝者があることを15日夜にお告げがあったのだと思えば、その不思議な出来事に、おそれ多く御仏(みほとけ)を敬う気持ちはますます強くなる。
 よって、彼らから聞き及んだ、実に不思議な話の一端を次に記すことにする。

第三節 不思議な出来事その3

 明治24年12月中旬10時頃、現在の太兵衛の妻、初(万延元年10月20日生)の話。夜、布団の洗濯中に、誰言うとなく、
「近いうちに火事があるが、決して驚かないように。」という言葉を聞き取った。「はて、不思議だ」と後ろを向いても誰も見えない。「まことに不思議なことだ」と一家で注意していた。
 そうするとやはり、翌日の午前に太兵衛宅横隣の源園旅館の女将(おかみ)が子どもを抱きながら、「源園は火事だ、火事だ。」と大声を上げつつ横の小道を走った。「これは大変だ」と駆け出して見てみると、旅館の三階からすでに火が噴き出ており、今まさに太兵衛の家に延焼しようかというその時、にわかに風向きが変わって、幸いにも延焼は免れたのであった。
 これはまさしく、平素信ずる国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)の功徳(くどく)であると、深く感謝したということである。また、一町(約100メートル)ほど先の家で出火があった時にも、阿弥陀如来のお告げがあったという。

第四節 不思議な出来事その4

 明治38年9月上旬、子息(しそく)の芳二郎が日露戦争に出征した時、一ヶ月余り音信不通となり、母の初が非常に心配して一時病床(びょうしょう)に伏す身となった時のこと。
 見舞いの客があり、話しているうち、病人である初は急に眠気を催した。その夢の中で、芳二郎が戦地より無事帰宅したと感じて、そこで正気に戻った。見舞いの客に、「私は今眠っていましたか。」と尋ねたところ、「少しもお眠りになることなく、声も高らかに私と語っておいででした。」との答えである。
「でも、戦地から芳二郎が無事に帰宅したと夢に見たのです。」と話すと、「それは、非常にご心配になるあまり、そのようにお感じになったのでしょう。」と見舞いの客が答えた。
 ちょうどその時、「郵便。」という声とともに、息子からの手紙十数通を郵便配達人が一度に郵便受けに投げ込んで行ったので、来客ともども「不思議だ、不思議だ。」と話し合ったことがあったという。

第五節 不思議な出来事その5

 三代目森下屋太郎の妻、はつ(文化12年7月1日生)の夢のお告げ。年月日は不明だが、ある夜のこと、一寸(約3センチ)あまりの御仏(みほとけ)が右手の手のひらに降臨(こうりん)され、御仏が「疑うことなく、迷うことなく、ただひたすら仏を信心せよ」とおっしゃる夢を見た。朝起きてすぐに仏壇に詣で、心を込めて礼拝しお経を唱えたことがあった。
 これはみな、国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)を信仰していた結果であると告げられたということである。

第六節 不思議な出来事その6

 ご本尊の千手観音菩薩もまた、不思議なお力をお持ちで、たぐいまれな尊き像であることは前に述べたとおりである。現に明治の晩年より大正の今日においても、府南寺に参詣する者は日々増加し、信仰する善男善女の病気平癒、開運、厄除け、安産その他、それぞれの欲するところにしたがってご利益(りやく)を得た者は甚だ多いのである。
 精神的な病にかかり、薬なども効かず、気が狂い、自分がどこの誰だかわからなくなってしまった者で全快した者は多数に及ぶ。また、長い間様々な病に苦しめられた者や、長い間の病気で腰がたたなくなった者なども、ご本尊のご利益(りやく)にあずかった者が少なくないのである。
 また、泰平山府南寺は、その昔より、日照りが続いて雨を欲する時には、村内あげてご本尊に雨乞いするのが常であり、その時々の住職は、本尊に祈り、「水天(すいてん)の秘法(ひほう)」をとり行って雨が降るよう請願(せいがん)するのである。そのような時、ご本尊の不思議のお力は明らかで、必ず雨が降る。
 最近では、大正2年の日照りが続いた8月中旬、村内挙げてご本尊に雨乞いをし、わたくしは「水天の秘法」をとり行った後、浜下りなどして雨を請うたのである。その日、遠くで雷が鳴り、少しの雨が降り、次いでご本尊の命日17日には、神も我々の願いをお聞き届けになったのであろうか、大雨が激しく降り、その不思議のお力が明らかになった。大正6年の日照りの際にも、不思議のお力は発揮されたのであった。
 また、昔より、疫病(えきびょう)が流行した時には、ご本尊の前で大般若(だいはんにゃ)をとり行い、疫病をもたらす悪いものが消え去るよう、心を込めて行じるのが習慣である。たとえ、毒を持った龍や悪い鬼が疫病をはやらせるようなことがあったとしても、ご本尊にひたすら祈りを捧げ、大般若を行じるや、疫病もその勢いを弱め、ついには消滅してしまうようなこと、最近でもそんな例がある。

第4章 舊蹟(きゅうせき)

 伊勢国府(いせこう)の地には、名所旧跡(めいしょきゅうせき)があちらこちらに多数見受けられるが、今は泰平山に関係あるもののみを紹介する。

1. 観音山(かんのんやま)

2. 御輿坂(みこしさか)

 観音山北方山麓(さんろく)にあり第四十代天武天皇(てんむてんのう)が一時身を寄せられた故事から、御輿坂の名前が今に残るのである。天皇は常に泰平山をあつく信仰された。何度も参詣なさって、祈祷(きとう)されたとのことである。

3. 天人影向ヶ池(てんにんようごうがいけ)

4. 近王道(こんのうみち)

 上寺観音(うえでらかんのん)境内の南にあり、東は岸岡より西は古厩(ふるまや)に通じる道がある。この道を近王道と言う。昔、源義朝(みなもとのよしとも)の家臣、渋谷近王丸(しぶやこんのうまる)が尾張(おわり)(現在の愛知県)内海(うつみ)より、主君義朝の首を持ち、平素より信仰していた泰平山に参詣し主君の回向(えこう)を弔(とむら)い、次いで源氏の再興を本尊に祈り、しばらくここに滞在した後上京した道であると伝えられている。

5. 丸竹池(まるたけいけ)

6. 八百姫塚(やおひめづか)

 八百姫(やおひめ)は96代光厳天皇(こうごんてんのう)の治世の頃、伊勢神宮に参詣して泰平山にも参詣したあと、ここから7町あまり北方、尼ケ池(あまがいけ)の地に至ってそこで没した。
 里の言い伝えによれば、第34代推古天皇(すいこてんのう)の治世の頃、若狭(わかさ)国(現在の福井県)の高路岩根という人が、
ある時丹後(たんご)国(現在の京都府北部)天橋立(あまのはしだて)に赴いた際、5歳くらいの幼女が松のくぼみから出てきて、岩根に向かって養女にしてくださいと頼んだ。岩根はその願いを聞き届け、自分の娘とした。この女性は八百歳を超えて生き、みめ形も美しく、美少女のようであった。そのような長寿を保った女性を当時の村人がまつって八百姫と称し、お墓に詣でて子どもの長寿を祈願するのが通例となっている。

第五章 什寶(じゅうほう)

 覚乗上人竹布(かくじょうしょうにんちくふ)の袈裟(けさ)は、もともと伊勢神宮の宝殿に収められたものであるが、そののち、戦乱が続き式年遷宮(しきねんせんぐう)を営むことさえできなかった折に、仮の場所に移し奉ったものと聞いている。そこは昔から国府(こう)の里人が屋根を葺(ふ)く習わしとなっていた。そのため、無量寿寺の時の住職は里人に呼びかけ力を尽くしたので、是彦長官がその謝礼として竹布の袈裟を府南寺へ返納したものであるという。
 また、泰平山は、阿弥陀堂葺き替え当時の瓦と言われるものを所蔵している。その瓦は丸瓦で、表面に大永3年等の文字が焼きこまれてある。さらに、観音堂丸瓦には、「寛文12年本尊御歌
いろづくや 上寺山の岸の松 風の音して 穐(あき)を知らせむ」
と明記されている。

 当泰平山が所有する宝物の主なものを下記に記すこととする。(訳者注 全20項 省略)
 このほか宝物は多数あれども、今は省略することにする。
 なお、すでに述べたように、泰平山は亀山藩に属し、代々の城主は府南寺ご本尊をあつく信仰し、本尊の御仏(みほとけ)に対するお供えとして五石ずつの献納(けんのう)があったのである。
 先に記した寺宝の黒印は、貞享(じょうきょう)元年10月23日付で松平隠岐守(まつだいらおきのかみ)より拝領(はいりょう)、また享保(きょうほう)元年松平和泉守(まつだいらいずみのかみ)より拝領、すべて武運長久(ぶうんちょうきゅう)、息災祈祷(そくさいきとう)のため寄付されたものである。また、観音山のもとの寺(無量寿寺)の土地や山などのご寄付があったのだが、維新後に官有のものとなったのである。

第六章 世代(せいたい)

 今まで述べてきたように、泰平山は聖徳太子の創立後数十世を経て、織田信長(おだのぶなが)による天正(てんしょう)年間の戦火に見舞われ、上寺観音(うえでらかんのん)を国府阿弥陀堂(こうあみだどう)の境内(けいだい)に移し奉り、天正の終わり頃、両寺を合併して泰平山府南寺と改称するに至った。
 そののち数世を経て、府南寺住職、光然法印(こうぜんほういん)の高弟であった良遍法印(りょうへんほういん)は、学識も行動力も兼ね備えた方であり、この寺を改築する大願を願い出、まず阿弥陀堂を(縦7間 横5間の現存する形)を総檜造(そうひのきつく)りに改築し、次いで観音堂を再建するに至った。また、大般若会(だいはんにゃえ)を再興し泰平山の発展に努め、泰平山の基礎を固められたのである。ゆえに、良遍法印をもって、泰平山中興の開山第一世となす。
 第二世は園鏡法印(えんきょうほういん)であり、泰平山に住した後、大和(やまと)(現在の奈良県)五條に移住なさった。
 第三世は雄敝法印(ゆうへいほういん)。同じく晩年阿波(あわ)国(現在の徳島県)高安寺に移住なさった。
 第四世は弘賢法印(こうけんほういん)であり、長く泰平山の法灯を継ぎ、しばしば疫病が流行したがその度に仏法の力を示され、延享(えんきょう)4年泰平山でお亡くなりになった。
 第五世尊諄法印(そんじゅんほういん)は寛延(かんえん)3年にお亡くなりになり、第六世広慶法印(こうけいほういん)は長らく大和(やまと)(現在の奈良県)長谷寺(はせでら)において遊学され、国内外の経典や典籍(てんせき)に通じ、ことに真言密教(しんごんみっきょう)の奥義(おうぎ)を究(きわ)め、明和8年の全国大干ばつに際しては「水天(すいてん)の秘法(ひほう)」を修せられたが、その法力は著しく、ご本尊の命日には雨が豊かに降り注ぎ、草木は歓喜の色をなしたということである。その他、種々の方面において法力をあらわされ、世のためにご利益(りやく)を施(ほどこ)されたのである。
 当時泰平山はおおいに破壊されていたので、諸堂に大修繕を加え、特に、現存する観音堂(四間半四面)の再建を志され、無量寿寺にあった松の巨木で再建を成就(じょうじゅ)、さらに真言秘密の聖なる教えを多く書写して泰平山に納められ、一大功績を残されたあと、弟子の広端(こうたん)を第七世と定め、天明(てんめい)元年府南寺でお亡くなりになった。
 広端もまた長谷寺で学び、明和(めいわ)9年小池坊灌頂道場(かんじょうどうじょう)において両部の大法を大阿闍梨(だいあじゃり)、快尊(かいそん)大和尚に受け、そののち法力をあらわし、天尊行者(てんそんぎょうじゃ)として仏道のしるしを示された後、府南寺でお亡くなりになった。
 第八世光賢法印(こうけんほういん)はウ一山(べんいちさん)灌頂道場において大阿闍梨、法印剛實(ごうじつ)師にしたがって大法(たいほう)を授けられ、真言の奥義を究めた。秘法に通じ、また多くの弟子を育て、府南寺道場において、寛延(かんえん)元年3月寛政(かんせい)10年4月の二回にわたって伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を修された。大阿闍梨として法灯を継がれ、泰平山の発揚(はつよう)に努められ、翌11年府南寺でお亡くなりになった。
 第九世成本法印(せいほんほういん)は後年東京浅草に移住なさった。第十世恵梁法印(けいりょうほういん)は真言密教、ことに工芸に通じていた。泰平山の諸堂、並びに境内の松の巨木が暴風雨によって倒されてしまい、庫裡(くり)と同様、改築せざるを得なくなり、自ら松の幹にのこぎりをあて、幹を削り、切ってしまわれた。そして、大工の棟梁(とうりょう)や人夫たちを監督して現在の庫裡(くり)(桁行10間 梁行6間)を完成させるに至ったのである。その後しばらくここに住まわれた後、文化14年和田石上寺に移住になり、同寺の聖天堂(しょうてんどう)を改築した後、そこでお亡くなりになった。
 第十一世定慶法印(じょうけいほういん)は泰平山の発揚(はつよう)に努められた。高野山に登り、能書家(のうしょか)としてその名を知られた。泰平山にお書きになった書の一部がある。天保(てんぽう)年間、東京愛宕(あたご)においてお亡くなりになった。
 第十二世慈観法印(じかんほういん)は秘法に通じ、和歌の道にも通じておられた。弟子の仁盛法印(じんせいほういん)に法灯を伝えた後、お亡くなりになった。
 第十三世仁盛法印(じんせいほういん)は長谷寺に学び、内外の経典や典籍に通じ、真言密教の奥義を究め、その法力は著しかった。弟子の教育にも力を入れられ、江州(ごうしゅう)(現在の滋賀県)光明寺住職、大鏡法印(だいきょうほういん)、江州小谷寺住職、照見法印(しょうけんほういん)、泰平山住職、是心法印(ぜしんほういん)、伊勢妙福寺住職、海信法印(かいしんほういん)、伊勢千福寺住職、住覚法印(すみかくほういん)、江州舎那院(しゃないん)住職、慈海法印(じかいほういん)、江州成就院後住法道法印(ごじゅうほうどうほういん)等その他孫弟子の多くをお育てになった。
 是心法印(ぜしんほういん)に法灯を十四世と定め、明治9年、江州坂田郡春照村大字杉の澤の成就院にて隠棲(いんせい)の身となられた。仁盛法印(じんせいほういん)は常に風流を好み、自ら当相庵即翁(とうそうあんそくおう)と号し、堪能な茶道宗旦古流(そうたんこりゅう)を広く世にお伝えになった。その門人は伊勢、近江、京都を通じて数百者多数におよび、現在においてもその流れをくむ流派が多くある。法印は米寿88歳を保たれ、大正5年4月にお亡くなりになった。ご存命の折、老体をいとわず、伊勢にお越しになり、泰平山の孫弟子、是明法印(ぜみょうほういん)(令温(りょうおん))を憐れみ、87歳の夏まで授法(じゅほう)を皆伝(かいでん)なさるに至ったのである。
 第十四世法印是心(ぜしん)(令識・りょうしき)が住職となるや、大暴風雨の襲来に遭い、観音堂、阿弥陀堂、山門裏門庫裡(さんもんうらもんくり)が大破損した。加えて鐘楼堂(しょうろうどう)の倒壊にまで至ったのであった。法印の苦境は言い表しようがなく、辛酸(しんさん)をなめ、苦闘が続くなか泰平山の再建に尽力し、ご本尊や信者を守りつつ、諸堂の応急処理に専心の日々であった。明治11年鐘楼堂の再建を終え、光明会(こうみょうえ)を発願(ほつがん)し、大般若会(だいはんにゃえ)を再興しその他多方面で活動された。津賀高神山観音寺、白木、国分寺富田正法寺等の兼任住職を務められ、大僧都(だいそうず)の時享年(きょうねん)59歳でお亡くなりになった。
 第十五世が現住職、わたくし是明法印(ぜみょうほういん)(令温(りょうおん))である。

結言(けつごん)

久米令温作 不動明王
久米令温作 不動明王

 泰平山には古くより所蔵する木版の縁起(えんぎ)その他の記録があったのであるが、摩滅(まめつ)、腐食(ふしょく)により鮮明さを欠くため、ここに小冊子を著して一般の信者に泰平山の概略を紹介しようとしたものである。